vol.19
「津軽の音色」
その1

二十代の頃、編集仲間と渋谷に小さな事務所を借りていたが、そこから目と鼻の先に「ジァン・ジァン」があった。百五十人も入れば満杯になるような小ホールで、前衛芸術の拠点ともいうべき場所だった。ある日、いつものように仕事場に向かっていると、小路から大通りまでひときわ長い列ができている。聞けば、高橋竹山の津軽三味線ライブが行われるというのだ。観客の大半は、十代から三十代の若い層。流行のスタイルでお洒落して華やいだ雰囲気を漂わせる彼らと、津軽三味線の取り合わせは、なんとも新鮮だった。子どもの頃、近所に住む叔父が、自宅で津軽三味線を教えていたこともあり、私にとっては馴染み深い楽器でもある。初めて生の演奏を聴いた時の、鳥肌が立つような「ジャワメグ(心が騒ぐ)」感覚は忘れられない。 津軽発の音色が、こうして若者を中心に受け入れられているという事実は、津軽人として誇らしかった。以来私は、演奏日にはわざと「ジァン・ジァン」の前を通り過ぎた。ふるさとの訛りを懐かしんで、停車場に「そ」を聞きに行く石川啄木の心境ではないが、私にとってそこは、都会の真ん中で津軽とつながっている特別な空間でもあった。明治四十三年に青森県の現・平内町で生まれた竹山は、幼い頃、麻疹をこじらせ半ば失明してしまう。晩年は、世界中から称讃の声を浴びた竹山だが、その生い立ちは不遇であった。十六才でボサマとして独り立ちし、東北から北海道を門付けして歩いた。家々の戸口で三味線を弾き、わずかばかりのお金をもらい放浪する旅芸人。飢えや寒さ、差別と戦いながら旅を続ける竹山にとって、三味線は唯一生きるための道具であった。
(その2へ続く)


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